Hall,Granville.Stanley.は著書「青年期---その心理学及びその生理学・人類学・社会学・性・犯罪・宗教・教育との関係」において、青年期を人生の重要な段階とみなし、はじめて青年期を心理学的に研究した。このことから「青年心理学の父」或いは「青年期のコロンブス」と呼ばれている。このなかでホールは、身長および体重の発達、青年期における身体各部および器官の発達など青年期の生物学的発達の様相に多くの紙数を費やし、青年期発達の諸特性についても各種の調査、研究結果から詳述するとともに、こうした青少年問題への提言を行った。彼によると人間の各発達段階については、以下のようにまとめられる。
こうした疾風怒涛時代を特徴的に示すものに、対立感情が相互に出現して発達する青年期の情緒発達がある。この対立感情として@無気力-熱情、A快-不快、B自負−謙虚、C利己-愛他、D善行-悪行、E社交−孤独、F多愛-冷酷、G知識に対する渇望-冷淡、H学理の研究と実際的活動、I保守-急進、などがあげられており、このことは現在の青年においても少なからず当てはまるものと云える。また、青年期というものが、生物学的要因によって人類普遍に必ず生起し、その様相も常に疾風怒濤として形容されるものとしている。
しかしながら、内容的には百科全書的で諸特性間の関連の検討はあまりなく、知識の羅列に終わっている点、心理学的反復説は思弁的で科学的根拠に欠ける点、その基礎が生物学的に規定され、社会文化的要因を考慮に入れていない点など、多くの学問的不備を抱えているとの批判があり、結果的にこれらは後世に残ることはなかった。他方、これ以降、青年期=疾風怒濤ということが定説化されているが、必ずしもホールのニュアンスと同じとは云えず、これに対して近年では青年期平穏説も提出されてきている。
Buhler. Charlloteは「青年期の精神生活」において、青年期の発達的基礎を生物学に置き、青年の内的生活の理解を図るために青年の日記を資料として検討した。収集された日記の概要を次のように述べている。まず、日記をつけ始める時期と止める時期について、女子で約14歳の誕生日から男子で約15歳の誕生日からつけ始めて、女子で19歳の誕生日頃、男子は18歳半で止めるとしている。その継続期間は、平均して女子で4年、男子で2年半となっている。また、日記で取り上げるテーマは、@政治・宗教・芸術などに関する省察、A恋愛とセックスの問題、B知人・友人から学校に関するまでの種々の共同体に関するテーマ、C自己の仕事・職業計画などの問題の大きく四つの領域からなっている。男女とも、@のテーマの割合が多く、日記をつける効用の第一として、青年に差し迫ってくる問題の克服があるとしている。
このように、日記などに表現される心理学的事象は、身体的成熟と生物学的意義との関連において理解できるとした。そのため、一連の身体的変化を意味する身体的思春期と、その時期に生じる心理的現象を意味するものとしての精神的思春期を区別した。前者を男子で14-16歳、女子で13-15歳までとし、後者は生活感情の違いから二つの時期に分類し、その境界を17歳とした。すなわち、身体的思春期と重なる前期を思春期と呼び、不機嫌・落ち着きのなさ・不安・損体的/精神的不快などが生じ、否定的感情が基調となるとした。これは、身体成熟にエネルギーを集中させた結果として起きる身体の変則状態が精神状態に反映したためと考えた。他方、それ以降21-24歳まで続く後期を青春期と呼び、肯定的感情を基調とする時期であるとした。これは、自ら統制できずに成熟していく身体に対する不安や苦悩から脱し、身体的成熟を能力の拡大、若さや成長などへの喜びとして体験するようになるためであると考えた。そして、これまで感じる事のなかった自然に対して、美と幸福を感じるようになり、機会を得れば芸術・学問・人なども幸福にするものと感じるようになる。こうした新しい価値の世界の発見は積極的・肯定的感情への最初の転機となるとした。
Eduard. Sprangerは「青年の心理」において、青年期を児童期の安定した精神状態からきわめて深刻な動揺をもたらす時期とし、児童期と成人期とは異なる精神発達のめざましい展開が了解により解明されるとした。生理学に基礎をおいたこれまでの心理学と区別し、自らの方法を「了解心理学・構造心理学・発達心理学・類型心理学」あると特徴づけ、青年の心理の解明に生物学の利用を拒否した。特に、青年ほど了解されることを求めている者はないとして、了解の重要性を指摘している。了解とは「精神的関連を客観的に妥当する認識の形において意味あるものとして把握する事」であり、「ひとつの価値全体を構成し、価値全体に関連し、或いは価値全体の実現を助成する諸部分間の組織または関連」を意味あるものとしている。重要な方法上の原理として、「直接的な生活意識の立場を超越する各種の客観的精神的関連知識を必要とする」ことと、「個々の精神の主観的存在や、体験や態度を、忠実に模写する追体験と同義語ではないこと」をあげた。これは、個々人の直接的な生活や社会的制約を超えた、客観的精神連関(芸術・宗教・学問・政治・経済・社会など)の知識を必要とし、これによってより広い視野から全体として見る事が出来、単なる個人的追体験に終わらせてはならない事を意味している。また、こうして了解される青年期の全体的特徴として、次の三つをあげている。
@自我の発見:子ども時代にも自我は存在していたが、意識されることはなかった。しかし、青年期になると、前述したホールが疾風怒濤と表現したような内的動揺によって、自己へ注目が向けられ、孤独を体験しながら、自分自身の内的司会である主観を一つの新しい世界として発見することになる。このように成立した新しい自我は、物思いにふけったり、日記や詩を書いたりするなどの自己反省、「一人前」として認められない不安定さから生じる過激な感受性、他人が入り込めない自分だけのものを持とうとするなどの独立しようとする要求の自覚と云った形で表れてくる。 A生活の計画が漸次に成立すること:生活の計画とは、職業選択だけを意味するのではなく、生活に対する根本的な態度を云う。子ども時代は楽しみや興味が中心となって生活し、毎日の生活が連続性をもった統一されたものではないが、青年期を迎えると、将来に対する理想をもった新しい生活に対する態度が現れるようになる。 B個々の生活領域に進み入ること:子どもであっても、大人の持つ価値を知ってはいるが、与えられたものにすぎず、問題意識を持つことはない。しかし、青年はこれらに人格的に関与し、自分なりに体験するようになり、評価や批判もできるようになる。こうしたことから、自己の芸術活動・施策・宗教体験が始まり、文化に対して能動的に関与していくことになる。
これらをまとめると、自我の覚醒により、自己の生活を未来への展望から計画し、文化的価値に主体的・積極的に関与していくことを青年期の特徴とみなしていると云える。
Leta. Setter. Hollingworthは「青年心理学」において、青年期を親に対する従順・依存から自己決定・自活への移行過程ととらえ、疾風怒濤の青年記説に反対し、発達が連続的で漸進的であるとした。当時の青年にみられた不安や緊張は、生物学的変化によるものではなく、おとなへの移行と社会的環境との葛藤によるものであるとした。こうした適応の観点から、青年期の課題として、心理的離乳(psychological weaning)の要求とこれに伴う葛藤解決、性的関心と異性適応、自立の達成、世界観の形成、これらを統合し組織化する自我の発見をあげている。このうち、心理的離乳は青年期の特徴として、広く紹介されている。これは、乳児期の栄養面での離乳と対比させて、親の管理下から離れ、自らの力で自己決定するようになることと云った心理面での離乳を意味しており、日常的には親離れと云われている事と対応している。具体的には家族との関係のとり方の修正を意味しており、それまでに作った習慣のセットを親子とも変える必要がある点に難しさがあると云える。
また、Peter Brosは精神分析理論の立場から、青年期を五つの段階に分け、性的エネルギーであるリビドーの向けられる対象が変化していくことから、親からの分離を次のように説明している。児童期まではリビドーが両親に向けられ、愛情或いは依存の対象になり、心理的安定が保たれてきた。しかし、青年期に入り、急激な身体発達や性的成熟により、内的な衝動が高まり、自我はいろいろな葛藤にさらされ、心理的に不安定な応対になる。ここで、自我は自律性を求められ、両親との依存関係が弱まり、リビドーが徐々に家族外に向けられるようになるのである。こうした親から自立し、個として独立していく過程は第二次個性化(second indivualization process)と呼ばれている。
Kurt Levinはゲシュタルト心理学派の一人として、人間を理解していくのに、その人間だけを取り出して把握するのではなく、その人間が生活している環境も含めてその人間を把握していかなくてはならないとする「場理論」を展開した。こうしたその人間が生活している心理学的場を「生活空間(life space)」と呼び、これは人(person)と環境(environment)から構成され、人間の行動(behavior)は人と環境の両者に依存している、すなわちB(行動)=f(関数)(P:人.E:環境)=f(関数)(LSp:生活空間)と考えた。
彼は、青年期を比較的に安定していた児童期にくらべて、急速で深刻な移動の時期であるとし、次の点から考察している。
精神分析的自我心理学の立場からErik Homburger Eriksonは、「幼児期と社会」において、心理社会的観点からの発達をとらえた自我同一性理論に基づいて、生涯にわたる自我の形成過程を戦時的発達図式或いは個体発達分化の図式(Epigenetic chart)に示した。これによると、それぞれの発達段階には心理社会的危機があり、健全な発達のためにはそれをより多くの程度解決することが必要とされた。
青年期は「同一性(identitiy)vs同一性拡散」の危機をもつものとしている。エリクソンによれば、青年期は成人社会に参加していくための準備期間であり、心理社会的モラトリアムと位置付けられている。ここでは、これまでなされてきた同一視、すなわちいろいろな自分の姿を統合し、自分とは何者であるかの回答を見つけることが求められている。これを達成できるか、或いは自分が何者かわからないままの拡散に陥るかの危機に遭遇することになる。
Margaret Meadはサモア島において女子青年と生活を共にするなかから観察した結果、いわゆる青年期危機現象・不適応行動・犯行・神経症などがほとんど見られず、人生で最も安定した幸福な時期であることを発見し、青年期が疾風怒濤であるとするこれまでの定説に衝撃を与えた。
Ruth Benedictは「文化的条件付けにおける連続と非連続」において、文化人類学からの発達理論を提起し、個人のパーソナリティの発達は育児やしつけなどに関するその文化に影響されるという文化的条件付けを重視した。そこで、育児やしるけが連続性をもってなされれば、発達は漸進的・連続的な過程をたどることになる。ところが、西欧社会においては、文化的条件付けが非連続的になされるため情緒的緊張を生むのである。とりわけ、次の三つの面で大きな変化が青年期に起きるとしている。
David Paul Ausubelは「青年期発達の理論と問題」で、青年期現象が生物学的要因と社会学的要因の両方によって生じると考え、この両者の統合をめざした。彼によれば、青年期は生物社会的地位(Biosocial status)の著しい変化によって惹起されるパーソナリティの再構成の時期とした。これは、青年期年齢に達して生じる性的成熟に代表される生物学的な変化と、社会的期待などの変化によって児童期までに形成されてきたパーソナリティの再構成が求められるとするものである。つまり、それまでの子どもとしての行動スタイルや態度では、もはやうまく適応することができなくなるため、いま一度作り直す必要があり、これまでの未熟な自我から成熟した自我へと変えていくことが必要となる。
=自立して生活できない児童期から脱却しなければならないための行動モデルの再編成⇒大人の行動モデルへの組み換えのための困難と混乱
いろんな説があったけれど、「青年期は危機なのか、危機でないのか?」「独自の発達段階なのか、近代社会の文化的産物なのか?」が問題とされてきた。これらも全部置いといて、以下の発達的課題に言い換える事が可能なのではないか?(Mead, M.)