遠隔授業:青年の心理 ADLESCENCE PSYCHOLOGY No.14

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自分を見つめる

○以下の文章を完成させてみて。
※この完成させたものを中谷に見せる必要はない。
(1)私は
(2)私は
(3)私は
(4)私は
(5)私は
(6)私は
(7)私は
(8)私は
(9)私は
(10)私は
(11)私は
(12)私は
(13)私は
(14)私は
(15)私は
(16)私は
(17)私は
(18)私は
(19)私は
(20)私は

上記のようなもの(課題)をTST(Twenty Statement Test)と呼ぶ。

TSTの解説

「私は」のあとに来るのが名詞が多いのか、形容詞が多いのか、その形容詞はどのようなものか?

では今度は意図的に「私は」のあとに名詞を入れてみて。

(1)私は
(2)私は
(3)私は
(4)私は
(5)私は
(6)私は
(7)私は
(8)私は
(9)私は
(10)私は

★次は形容詞

(1)私は
(2)私は
(3)私は
(4)私は
(5)私は
(6)私は
(7)私は
(8)私は
(9)私は
(10)私は

★名詞・形容詞以外のものは?

(1)私は
(2)私は
(3)私は
(4)私は
(5)私は

○「状態」を表す「〜中だ」は、形容詞と同じだと考えて良いし、「よく〜について考える」も同じ。或いはそのことで自分を人と比べているのかも知れない(これは次に説明する)。また、そのことで「自分を演出」している可能性はないだろうか?

←どう感じた?思った?考えた?

○「私は背が高い」「私は普通の体重だ」「私は頭が良い(悪い)」「私は声が大きい方だ」「私は顔が大きい」「私は長電話をする」など、他者との比較で自分について云う傾向の強い人がいる。これらは云わば「偏差値的発想」。

→こういう比較に基づく「私は〜だ」ばかりが並ぶと、「本当に私とはこんなものなのだろうか?」と云う疑問が湧き上がってくる。それは「私を外側から見る『評論家的発想』」だから。

○「あいつの発言は評論家的だ」と云う言い方もよく耳にする。状況に関わらず、外側からだけ見て、実際には何もやろうとしない人に対して「もどかしさ」を込めて使われる。しかし、自分が自分自身に対して評論家的だとなると、その「もどかしさ」も格別。生きている私がここにいるのに、なぜか自分が自分自身に対して評論家になっている…そのときに「生きている私」はなにかむなしさを感じてしまう。

○「生きている私」とはいったい何か?私たちの多くは自分自身を評論家的に見る事になれているので、突然「内側から見る」と云われても戸惑ってしまうかもしれない。その「生きている私」を「内側から見る」という視点を獲得することがこのworkの狙いのひとつ。

※いま何を感じている?思っている?考えている?


○次のwork

★私は人からこう見られたい

★私は人からこう見られたくない

○いま書いた「見られたい」と「見られたくない」のそれぞれに順位をつけて。

→あなたが一番「見られたい」「見られたくない」のは何か?

○ふだん、私たちは無意識のうちに人から「こう見られたい/こう見られたくない」と云う「枠」で行動していることがある。それをどの程度意識してやっているか、無意識のうちにやっているかは人によって異なるが、誰にでも「見られたい/見られたくない」のパターンはある。そして、そのパターンを一度書き出してみてみる事は意味のある事。

(ほかのひとのコメントから)

「私って、「見られたくない」ほうばっかりあがってくるのでびっくり。だって、論理的に考えれば、「見られたくない」事があれば、その反対に「見られたい」のもあるはず。両方の数は同じになるはずでしょう。それなのに思いつくのは「見られたくない」ことばかり。これって、どういうこと?よく考えてみると、私はいつも人と会うと「こう見られたくない」「ああみられたくない」とまず思ってしまう。変に見られると思うとそれだけでドキドキして冷や汗が出てくるというか…。別にそう見られている訳ではないのに、恥ずかしくなってくる…」

「僕の場合はこう「見られたい」というよりもむしろこう「見せたい」と云う意識が強い。ただ」「見られたい」というのではなく、もっと演出しているというか。アルバイトのせいでしょうかね。ちょっと戦略的なんです。そのくらいでないとやっていけませんからね」

○「みられたい」「みられたくない」のどちらが多いか、どちらに力点がかかっているかは人によって違う。一般的に「見られたくない」が強い人は、そう見られると「恥ずかしい」という思いが強いようだ。「不潔だとみられるくらいなら死んだ方がまし」といったように、それだけですべてを失ってしまうと強く思っている人もいる。けれども、「〜と見られたい」と書いた人にその傾向がないかと云えば、躁でもない。「〜と見られたい」と云うのが「〜だとみられたくない」と云う事の裏返しで、しかし本人はそれに気づいていないと云う事もよくある。例えば「リッチに見られたい」が実は「貧乏にみられたくない」という強烈な思いの転換した形であったりする。あなたの「見られたい」「見られたくない」はどうだろうか?自分でチェックしてみて欲しい。

○「見られたい」「見られたくない」についてもうひとつ。それはあなたの「見られたい」「見られたくない」の向こう側に、さらにメッセージが隠されている可能性があると云う事。あなたの「見られたい」「見られたくない」は、誰かのように「なりたい」「なりたくない」に対応している可能性がある。例えば、「派手に見られたくない」という向う側に「派手だった母のようにはなりたくない」というメッセージが隠されていると云ったことは結構多いもの。それは母でなくても、父だったり、姉・妹・兄・弟だったり、また学校の先生・友達・或いはプロ野球の選手だったり、俳優だったり、誰でも「〜のようになりたい/なりたくない」というターゲットにされる可能性がある。あなたの場合はどうか?

先程の「見られたい」「見られたくない」のリストを全部見直して、自分でも考えてみて欲しい。

○あなたの「見られたい」「見られたくない」というパターンは、心の中にあるだけではなく、行動を伴っている。あなたは「〜にみられたい/見られたくない」ために何らかの努力をしているはず。それはどんな努力だろうか?具体的に思い起こしてみよう。例えば 私は人からおしゃれだと思われたいために、
  食事を倹約して、お金を貯めて、気に入った洋服を買う。
  バーゲンセールは絶対見逃さない。
  ほかの人が何を着ているのか、いつも気にかけている。
  買っても着てみて気に入らない服はすぐ捨てる。  ようにしている。
といった行為が挙げられる。


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