子どもが親から離れ、一人前になること。一人前になる=自立する。
自立=自らを拠り所として立つ。・・・自分が頼りがいのあるしっかりしたものと、誰が思っているか?特別にうぬぼれが強く、自信の強いごく少数の者を除いて、誰もが自分は頼りないものだと思っている。しかし、最後には自分を頼るしかないのだと云う事にも気づいている。自分の痛みは自分にしかわからないし、自分の死を他人が死んでくれる事はない。誰もが頼りないからこそ、人とかかわり合っていく。
親子関係も頼りない者同士の関わり。小さい子にとっては絶対的な力を持つ強大な者=親=頼りになる保護者。しかし自我に目覚めた青年は自分が秘密を持つように、親にも自分には見せない秘密の世界があることを知る。親もまた自分と同じ人間であることを知った青年は自分と同じように親もまた自分を頼りない者だと思っていることを知る。さらには、若々しいこれから成長の頂点に立とうとしている青年である自分に比べ、親は衰退的発達の方向にあり、杖なくして歩けなくなっていく姿をも知る。そんな姿を見たとき、子どもは自分を養ってくれる親と捉えるばかりではなく、子どもが物理的にも精神的にも親を養っていく者であることを自覚するようになる。
大切に育ててきた子どもの親離れ=empty nest syndrome:親の側の自分の人生の意味の問題。この時期、子どもは自分自身に大きな関心を持っているため同時に起こっている親の心理的危機には気づきにくい。
今日の日本の青年にとって物質的な豊かさと自由さは既にあるものとしてある。洗濯機・冷蔵庫・カラーテレビ・VTR・エアコン・乗用車のない家の方が少数派。83.5%が自分の部屋を持っている。→彼らを取り巻く環境とその生活が人生観・価値観・職業観を培う基盤となる。総務庁青少年対策本部が18-24歳の青年を対象に行った「世界青年意識調査(1994)」によれば、人の暮らし方について「自分の好きなように暮らす」という個人主義的な生き方が56.3%と最も多く、他の国でも同様だった。着いて多いのが「経済的に豊かになる」が28.3%で先進国の中で日本がずば抜けて高く、「豊かな社会」で育った若者たちのなお「豊かさ」に向けての強い執着がうかがえる。
一方、「社会のために尽くす」という国家や社会を優先する考え方は途上国に多いが(11-30%)、日本は6.5%とスウェーデン、ロシアに次いで低い。国家などからの強制を受けず、自己の信条と価値に基づいて自由に行きたいというのが、日本の青年に限らず世界の青年に共通する信条と云える。
→誰からも何物をも強制されない自由と豊かな暮らしの中で多様化した価値観のもと、青年が何に生きる目標を見出し、何を働く目的とするかは以前にもまして困難な課題だと云える。
児童期までの子どもにとって社会とは、圧倒的な力の差としてそこから守られ、育まれると同時にその規律に従うのが当然とされる関係にあった。しかし、生理的・身体的には十分大人の域に達し、自我意識を持ち始めた中学生・高校生にとって、大人社会は自分たちと拮抗するものとして現れてくる。服装・髪型・持ち物・行動(外出・飲酒・喫煙など)に及ぶ規則・梗塞として、つまりはまず規制の枠として存在するのが彼らにとっての社会だろう。そのような中で青年は社会をどのように見て、どのようにかかわろうとするのだろうか。社会とは人間の集まりであり、人との様々なかかわりのなかで私たちの暮らしは成り立っている。だが、「中学生・高校生の生活と意識」調査(1987)によると、「他人の面倒はあまり見ないが、他人にも迷惑をかけない」生き方が良いと考える者が中学生・高校生で半数を超える。=他人の面倒は見ないというより、他人に舞枠をかけないという学校教育のなかでの道徳律が親たち都市生活者の知恵と合わさって、他人とかかわりを持たない、持とうとしない無関心層を生み出していった結果と云える。他人に対する無関心は当然ながら社会に対する関心のあり方に反映されてくる。「世界青年意識調査(1989)」によると、「最も大切な事は、自分自身の生活を充実させることである」(53.9%)と云う意見が「それだけでは十分ではなく、社会のために役立つことがしたい」(33.4%)と云う意見を大きく上回った。青年に限らず、社会全体がこのような風潮にあって、なおそれでも日頃何か「社会のために役立ちたい」と思っている者が20-24歳で4割いる事も事実である(総理府広報室「社会意識に関する世論調査(1988)」。一方、そのような価値観を持つ青年たちはいまの社会をどのように受け止めているのだろうか。「青少年の連帯感などに関する調査(総務庁青少年対策本部、1986)」によると、15-24歳の青年のうち、今の日本の社会に飽き足りないと感じる「不満派」は44%なのに対し、特に不満はないとする「満足派」は55.4%と半数を上回った。1970年から5年ごとの調査以来初めての事で、回を追うごとに「不満派」が減少し、「満足派」が増加している。ちなみに1970年の調査では「不満派」が66.6%、「満足派」が33.1%であった。社会への不満の内容をこの両年で比較してみると「正しいと思う事が通らない」「まじめなものが報われない」あたりは若者の正義感を反映してあまり変化はないが、「貧富の差がありすぎる」「国民の意見がまとまっていない」ではそれらを不満とする者が大幅に減少している。←今(2014年)ではどうか?
青年が社会に不満を持った場合、「選挙権を行使する以上の積極的な行動はとらない」者が我が国では半数を占めるが、その「選挙権の行使」についてはどうか。1987年7月の参院選及び翌年2月の衆院選ではどの世代を通じても20代の投票率が最も低い。
消費社会といわれる今日、若者の購買行動抜きには語れないと云われるほど、その消費動向は市場を左右するまでになっている。消費水準が全体に上がっている中で大学生では大半が、高校生でも夏休みなどの休みを利用してかなりの生徒がアルバイトを経験している。アルバイトを始めた動機は高校生では「自分の小遣いを得るため」「買いたいものがあるため」であり、「経験のため」いう場合も多い。高校生の場合、学校と家庭という限られた生活空間の中でアルバイトをすることで「社会」を垣間見て経験を広げるという意味を持つのと同時に、一定の役割を与えられ責任を果たすという学校生活にはない針と充実感をその経験のなかで覚える事が多いだろう。しかしじゆうになるお金を得る事で服装が派手になったり、おとなの仲間入りをして飲酒・喫煙を覚える事も多く、そのあたりのコントロールが高校生では難しい。
大学生の場合、時間的な余裕があるためアルバイトをする学生はかなりの割合にのぼる。仕送りで生活をまかなう自宅外通学者ではアルバイトに従事しなければ修学に不自由が或る者もいるが、半数以上の学生は経済的余裕があってアルバイトに従事している(文部科学省)。使途の多くは飲食・衣服・旅行・その他のレジャー・などで、学生生活を豊かにしたいと考えられる。
今日の日本社会で学歴はどれくらいものをいうのだろうか。高校進学率が95%に達し、なかば義務教育化している現在、ここでいう学歴とは大卒か否か、またどの大学・学部を卒業したかを指すものと云える。
18-24歳の各国青年層に尋ねた「大学卒の学歴が評価される要素」を見ると、日本では「大学でどのような専門分野を学んだか」「一流大学かどうか」が重要なのであって、他の国々で回答の多い、「大学でそのような成績を修めたか」は殆ど問題にならない。→学歴が評価されるのはどの大学の何学部を出ているかであって、大学で学んだ内容や修めた成績ではないと日本の青年は見ている。一方、学歴や出身校が重視されているかを問うた世論調査「教育問題(学歴)に関する世論調査(総理府広報室1985)」でも「かなり重視されている」(36.6%)「ある程度重視されている」(52.4%)を合わせると9わりの者が学歴が重視されていると考えている。しかも、「学歴偏重社会から移行すべきだ」という意見に賛成したもの(79.3%)であっても、そのような社会への移行は60.6%が「難しいと思う」と答えており、実際には学歴偏重社会は止むを得ないと考える者が多いことがわかる。
このようななかで、進学動機も手段的になっていかざるを得ない。大学などへの進学希望者の進学理由を見ると、「希望する職業に就くのに学歴や資格が必要」「給与・小悪心の面で大学の学歴を持っていた方が有利」という合理的意識に基づく手段的理由をあげる者が6割を占める。他方、「自由な時間をもっと持つ」「大学へ入ってから将来の進路を決めるため」「勉強する、友人をえるため」などの理由をあげる者も3割いる(総理府広報室「将来選択期(15-19歳)における青少年の意識調査1980」。
「世界青年意識調査(1994)」によると、各国ともまず1位は「収入を得る」であり、次いでだいぶ少なくなるが「仕事を通じて自分を生かす」となり、「社会人としての義務を果たす」と考える者はごく少数である。一般に職業の機能として@個性の発揮、A役割の実現、B整形の維持の3つが挙げられるが、この3側面のどれを重視するかは、人により、社会・時代によって異なってくる。例えば、明治末から昭和の初期にかけての日本では立身出世的職業観が優勢で、第2の側面に立って倹約勤行して高い社会的地位を得る事がそのまま社会に貢献することと考えられていた。戦時中は同じく第2の側面に立ちながら、お国のためという自己献身的職業観が強調された。戦後は経済の復興と民主主義の流入によって第3の側面に比重のかかった生活中心職業観が優勢となった。さらに昭和30年代の高度経済成長を基盤に第3の側面である物質的豊かさを追求・享受する小市民的職業観が生まれ、今日にまで至っている。
職業が「個性の発揮」であると考えると、その延長上には個人生活の重視がおのずと位置づくことになる。既に働いている青年に「仕事と仕事以外の生活のどちらに生き甲斐を感じるか」という質問をしたところ、「仕事以外」と答えた者が66.2%と過半数を超え、「仕事」に生き甲斐を感じる者は23.3%に過ぎなかった(総務庁青少年対策本部「世界青年意識調査」1994)。しかいs一方で、選ぶとしたらどちらの職場が良いかと問われれば「仕事はきつく忙しいが権限と責任を持たせてくれる職場」が圧倒的(71.4%)な支持を得、「仕事は楽で忙しくない職場」が良いとする者は少数派(23.5%)でしかない(同上)。同じく19-28歳の青年に「やりがいのある仕事が良いか気が楽な仕事が良いか」を尋ねた質問でも、多くの青年(75.0%)が「やりがいのある仕事」を求めている(総務庁青少年対策本部「現代青年の生活志向に関する研究調査」1986)。残業や休日出勤を命じられて、個人の都合を優先させる新人社員が増えているなか、「最近の若者は仕事への意欲が薄い」「企業への忠誠心がない」といわれるが、仕事と個人生活を切り離したうえで、やりがいのある仕事、責任のある仕事をと思い、決められた時間内に効率的に仕事をこなそうとする青年の姿勢がここにうかがえる。