- ピーターパン症候群(Peter pan syndrome)
1983年にダン・カイリーが提唱した概念。「誰でも持っている問題の一種」なので、DSM(アメリカの精神病の診断基準)には掲載されていない。
[意味]「成人」年齢に達しているにもかかわらず、精神的に大人にならない男性を指す言葉。カイリーは著書の中で「成長することを拒む男性」として定義している。
[さらに]言動が「子どもっぽい」という代表的な特徴をはじめ、精神的・社会的・性的な部分に関係して問題を引き起こしやすい。
→人間的に未熟でナルシズムに走る傾向を持っており、「自己中心的」・「無責任」・「反抗的」・「依存的」・「怒り易い」・「ずるがしこい」という子ども同等の水準に意識が停滞してしまう大人を指す。ゆえにその人物の価値観は「大人」の見識が支配する世間一般の常識や法律をないがしろにしてしまう事もあり、社会生活への適応は困難になりやすく必然的に孤立してしまう事が多い。
←近親者による過保護への依存、マザーコンプレックスの延長、幼少期に受けたいじめ若しくは虐待による過度なストレス、社会的な束縛感・孤立感、劣等感からの逃避願望、物理的なものでは脳の成長障害なども考えられるとされている。←元々、精神医学分野から出たものではないので「木に竹を接いだようなもの」。
[だから]成長を拒むので大人の女性との対等な関係を結ぶことが苦手。大人の男としての現実的な将来への展望、人生への考想などの意識が著しく欠如するため、相手に対してつり合いが取れるだけの話題を共有することが出来ない。
- オリジナル(ダン・カイリー 小此木圭吾訳「ピーターパン・シンドローム」)
―なぜ、彼らは大人になれないのか 1984 祥伝社)による「ピーターパン人間の社会的プロフィール」によれば、
- 性別:男
- 年齢:12-50歳
- 症状歴:下記の通り
- 12-17歳
程度の違いはあるが、無責任、不安、孤独感、それに性役割の葛藤という四つの基本症状が始まっている。
- 18-22歳
ナルシシズムと男尊女卑志向に取り付かれた行動をしはじめるにつれて、たとえ不都合な事があっても、できるだけ気にしないタイプになる。
- 23-25歳
急性の危険が起こる。人生すべてについて、漠然とした不平不満がつのり、専門家に助けを求めるが、たいていの医師やセラピスト(臨床心理士)は、ノーマルだと片づける。
- 26-30歳
慢性化の段階に入る。成長した大人の役を演じようとする。
- 31-45歳
結婚し、父親になる。安定した仕事を持ってはいるが、人生はなんと退屈で繰り返しばかりなのだろうと絶望している。
- 45歳以降
中年になると、憂鬱や苛立ちの傾向がひどくなる。なにも好き好んで、こんな無意味な暮らし方をしてきたわけじゃないと、これまでのライフスタイルに反抗し、もう一度、人生を取り戻そうといろいろな事を企てる。
- 社会的・経済的地位:中流から上流
- 外見:本人をよく知らない人からは、好人物だと思われやすい。愛想のいい笑顔で、第一印象はかなり良い。
- 財政状態:若い場合は親がかりのことが多い。20代はじめになっても親と同居中だったり、生活していくのがやっとの収入しかない。良心、またはほかの人のすねをかじって暮らしている。
- 結婚:25歳までの若い場合は、大抵独身で過ごす。デートの相手にはもっぱら自分より年下か、幼さが残っている女性を好む。
結婚後、妻たちは夫をつなぎとめておくのに一苦労する。また、家庭人となった後も、家族より仲間を大事にしがちで、これも妻の頭痛のタネ。
- 学歴:若い場合、大学には入学するが、何を専攻したら良いのか悩み、迷う。たいてい標準の年限では卒業しない。年長の場合では、それなりの教育を受けているのに、自分の学生時代に満足していない。もっと勉強しておけばよかったと後悔している。とかく彼らは、周囲からは平均以下と見られている。
- 職歴:若い場合は職場を転々として、必要に迫られない限り働こうとしない。立派なキャリアにあこがれる割には努力することを嫌う。気に入らないと、自分にふさわしくない仕事だからと、さっさと辞表を出す。また、怠慢を理由に解雇を申し渡されることもしばしば。
年長の場合だと、自分たちの価値を証明しようとして、ワーカホリックが増える。ボスたちに現実離れした期待を抱くが、この傾向は自分自身にも向けられ、能力以上に働こうとしたり、とにかくやたらに頑張りたがる。そのくせ、本当はもっとほかに自分に適した職業があるはずだと云う思いに悩まされている。
- 家族:伝統的な家庭に育った長男に多い。両親は離婚もせず、生活も豊かである。父親はたいていホワイトカラー。母親は家事と育児を生き甲斐にする専業主婦である。働きに出る主婦もいるが、あくまで生活費補てんのため。
- 趣味:若い場合、ひたすらパーティに明け暮れる。年長の場合もパーティ好きの人物が多い。先頭に立って騒ぐ。また、スポーツと聞くとハッスルしすぎる人も多い。
- 感情麻痺:ある時期から発育がストップしている。そのため、感情をそのまま正しく表現する能力に欠けている。普通に怒ればいいものを激怒してしまったり、嬉しさがヒステリーの形になったり、とかく微妙なニュアンスの表現が下手。
- 怠惰:成長盛りには彼らはぎりぎりまで物事を放っておき、これ以上はだめだ、と云うところまで来てから、ようやく取りかかる。「わからない」とか「どうでもいいよ」が口癖。少々の批判はどこ吹く風。なかなか人生の目標が決められない。決められないのではなく、本当は決めるのを先に延ばしてもいい、と思っている。しかし、或る年齢以上になると、罪の意識が起こる、のんべんだらりの態度が一変していつも何かやっていないと気が済まない働き者になる。これもリラックスしたくても、どうしたらよいのかわからないから。
- 社会的不適応:彼らには本当の友達がいない。もちろん友達を作ろうと懸命に努力をしてはいるが、これがうまくいかない。Teenagerの頃は、仲間の影響を受けやすく、善悪の判断もその時々の気分しだいという無責任さ。また家族への愛情や心遣いよりも、単なる知り合いに親切にしたり、新しく友達を作ることを優先しがち。彼はものすごいさびしがり屋で、一人ぼっちにするとパニックに陥る。それを知っているから、必死になって仲間を見つけようとする。場合によっては金品で友達を作ろうとする。彼らは、その一生を自信を持たずに生きていく。その反面、見当違いのプライドだけは人並み以上に高いので、なかなか自分の実力の限界を認めようとしない。
- 思考の魔術:「考えなければ、そのうちどうにかなってくれる」とか「難しく考えると、却って本当にそうなってしまう」といった発想は、PPS特有の迷信的な思考の魔術だ。こういった「心の魔術」のために誤りを認めないから、ごめんなさいの一言が云えない。こうした不合理な心の仕組みが原因で、社会的不能症や感情麻痺がおこるのだが、とにかく彼らは、他人への責任転嫁が上手だ。それが昂じると、クスリの濫用に走ったり、異常にアルコールに頼ったりする。気分が高揚すると、問題が消えてしまうような気がするからだ。
- 母親へのとらわれ:怒っては罪の意識に苦しむと云う、ものすごいambivalenceを母親に向けている。母親の影響から逃れたいと願っているが、そうしようとするたびにひどく罪悪感を覚える。母親と会うたびに緊張し、皮肉の応酬と慰め合い、というのがお決まりの亜ターンだ。若い場合、自分の要求を通すために、母親の同情を引こうとする。とくにお小遣いをせしめる時は、いつもこの作戦だ。母親にものすがい勢いで食ってかかったかと思うと、急におとなしくなり、平謝りに誤ったりする。年長の場合は、母親にアンビバレンスをそれほど感じなくなり、かけた迷惑や心労の数々が忘れられず、いままでよりは悪かったと思う気持ちが強まる。
- ウェンディのジレンマ(Wendy Dilemma)
[意味]ピーターパンの「お世話係」。(ピーターパンの)相手をするのには手を焼くし、予想外の行動もある。そのたびに「私が悪い」と無理して頑張ってしまう。
また、ほんのささやかな願望でも、まず不平・不満を並べ立ててからでないと実現できないと考える。彼女たちは母性を発揮することで結婚生活に満足感を見出そうとするが、それと気が付かないうちに、PPS人間の子供じみた駆け引きに引っかかってしまう。これは母親と息子の関係がそのまま再現されたものであるが、当然のことながら、大人としての男女の関係に大きな支障をきたすことになる。
- オリジナル(ダン・カイリー 小此木圭吾訳「ピーターパン・シンドローム」)
―"愛の罠"からぬけだすために 1984 祥伝社)による「世間体にとらわれたウェンディ・六つの特徴」によれば、
- 心理的距離(psychological distance)の問題点
二人の人間が感じる、お互いの間の近しさと隔たりを、心理的距離と呼ぶ。相手を身近な存在と感じれば感じるほど、心理的距離はせばまるわけだし、その逆に、お互いの隔たりが大きくなればなるほど、心理的な距離は遠くなると云う事になる。
ウェンディは、誰かに認めてもらおうとする場合、承認を求める相手の自分の心理的距離に応じて彼女の努力の度合いを決める。例えばスーパーマーケットのレジ係のように心理的な距離が遠ければ、ウェンディの相手のご機嫌を取ろうなどとは思わない。ところが奇妙な事に、このようにどうでもいい人物に対してはウェンディは気分がリラックスして、却ってより自分らしい気持になれる。また、テニス仲間とか同僚などと云った中程度の距離にある相手とは、できるだけ最小限の努力で「それ相応の」社会的イメージを保とうとする。認められなかったらどうしようか、という不安は多少感じるが、他人からの賞賛と承認が約束されるイメージを演じる事で、なんとか不愉快な状況を避けようとする、ところが、夫や父親、或いは恋人と云った心理的距離が近い相手には、何とか良いイメージを演じて、絶対気に入られたいと思うあまり、却って緊張してしまう。緊張のために神経質になって、余計な言動をしては、かえって彼らの不評を買ってしまう。こうして、努力すればするほど、非難される度合いも高くなり、どうしてもうまくやれなくなってしまう。
- 他人の合図(cue)の読み取り:
ウェンディタイプの女性は、パーティ会場に着くや否や、たちまち人々が発している合図を読み取ってしまう。彼女たちはnon-verbal languageを実に巧みに解読する。例えば、ハンサムな男の視線からは、普通の男性や他の女性の視線なら見逃してしまうような微妙なニュアンスを感じ、くすくす笑いや冷笑には、その長さで、それぞれ別の意味を感じ取る。
- ご機嫌取り:
自分の社会的イメージにこだわる女性は、どうやって相手に着に入られるか、沢山の手練手管を持っている。ちょうど医者が治療方針を何通りも心得ているように、ウェンディもどうやったら相手に自分を認めさせられるか、その処方箋を沢山用意している。例えば、ふてくされた男性には同情を、内気な男性には優しいタッチで接するのがよい。会長夫人には女王陛下に接するように、むっつりしている男にはにっこりと笑うのが効果的、年配の威厳ある男性には、尊敬の念を示すのがいい。=彼女がやっている事は、まさに自分の父親のお気に入りになるための努力の再現そのものである。
- きらわれたくないので、「no」と云えない:
自分の社会的イメージを守るために、これ以上は無理、という限界ぎりぎりまで、ウェンディはノーと云って断ることをしない。ノーと云ったらきっと嫌われると信じているから。そのために自分が何かできない場合、それを人のせいにしたり、招待を断るときも、病気だからとかなんとか、できるだけ自分の意思でないふりをする。彼女が、どうしても認めてもらいたい相手からの招待を断る場合、あれこれと気遣いが募って仮病どころか、とうとう本物の病気になってしまう事さえある。
- Identity lost:
社会的イメージに固執するあまり、ウェンディは彼女のidentityを失ってしまう。いつもいつも他人の顔色をうかがって暮らす自分に、誇りを持てるはずがない。自分のイメージのコントロールに夢中になっている彼女たちが鏡をのぞいたら、おそらくそこに映るのは、他人の要求や好みばかりに違いない。自己のidentityを失ったり、まだ見つけられずにいる女性と云うのは、なかなかその人となりが分かりにくい。例えば交際中、或る段階までは結構よくできた、自分の事がわかっている女性のように見える。ところが交際が始まり、彼女の社会的イメージが傷つく可能性が出てくると、突然仮面にひびが入り、装いが壊れる。そして「あたしって誰?自分にもわからない」という途方に暮れた正体が表に現れる。これを境に、彼女がそれまでしっかりコントロールしてきた社会的イメージが壊れ始める。
- 力があると云う錯覚:
自分の社会的イメージを保つことに夢中になっている女性は、自分には魔法の力があると信じている。まるで自分には、他人の物の見方を思うとおりに支配する能力が備わっているかのようにふるまう。こうした不合理な発想を信じるようになったのも、実は子ども時代に原因がある。つまり、これは両親に気に入られ、拒否されないために、一所懸命努力したことで身に付いたものなのである。少女時代なら、この現実離れした自我の力は、恐怖を押さえつけ、良い気分でいる手段として有効だったろうが、成人してからは逆に幸福のチャンスをつぶす脅威になってしまう。
- ティンカーベル
ピーターパンの母親役を演じることをあっさり拒否し、自分自身が成長し、identityを見出すことに専念しようとした。そして彼女は二人(ピーターパンとティンカーベル)の関係が良くなるのも悪くなるのも、その責任の半分は自分にあると考えている。相手が気ままに未熟な行動をすることを許さないし、自分の弱さは認め、克服しようと大変前向きに生きようとする。
相手の行動に左右されず、優先順位をつけてマイペースで行動する。理不尽だと思ったら抗議もする。
- シンデレラコンプレックス(Cinderella comples)
日本語版オリジナルはColette Dowling 「(全訳版)シンデレラコンプレックス」三笠書房1985
[意味]男性に高い理想を追い求め続ける、女性の潜在意識にある「依存的願望」のこと。外からくる「何か」が自分の人生を変えてくれるのを待ち続けている。
アメリカの作家Colette Dowlingが1981年に提唱した概念。彼女は著書で、「他人に面倒をみてもらいたい」という潜在的願望によって、女性が「精神と創造性」とを十分に発揮できずにいる状態をこのように表現した。幼いころから女性の幸せは男性によって決まると考え、シンデレラのように理想を追い求めるも、主婦をやっているうちに自主性を見失い、結果的に夫に依存し、自由と自立を捨ててしまうとされる。
女性の自立を阻む要因の一つとして、「白馬を駆る素敵な王子様がどこからか現れて、迷える女の子である自分を救ってくれる」という幻想に取り付かれている事が原因。これに加え、シンデレラ=ストーリーへの本能的とも云える憧憬は、裕福な家庭に生まれた女性が「シンデレラになるための条件を生まれつき(?)持てなかった」として両親を恨むと云う事例がありふれたこととして語られるほどに、洋の東西を問わない普遍的な現象として認知されてきた。
女子学生の場合、多様な人生の展望があることもあり、その時点ではシンデレラコンプレックスも独立と依存の二重性を持つことが明らかとなっている。このような無意識の依存欲求は、裕福な家庭で育てられた女性や高学歴の女性に多くみられるとされる。有能で仕事ができ、社会的に自立している反面、他人に依存したいという潜在的な欲求が強いのだとされている。
―――幼年期が問題の始まりである。幼年期、危ない目に遭う事はなく、何から何まで面倒をみてもらい、必要なときにはいつでもママとパパに頼れば良かった時期。夜が悪夢でも不眠症でもなく、その日こんなしくじりをしたとか、ああすればよかったとか、そんな思いにつきまとわれ責め立てられる時間でもなかった時期。風邪が木々を優しく愛撫するのを聴きながら自然に眠ってしまう事の出来た時期。意識の表面のすぐ下に存在するそうした幼年期の甘ったるい思い出と、女性の強い家庭志向とのあいだには、一つの関連性があるとわたしは思う。依存という点だ。誰かにもたれかかりたいという欲求---幼時に逆戻りして、大事に育てられ、面倒をみてもらい、危ないことから 遠ざけてもらいたい欲求。そうした欲求は大人になっても存続し、自足したいという欲求のすぐかたわらでなおも満たされたいとせがむのだ。ある程度まで、依存欲求は、女のみならず男にとってもごく正常なものである。しかし女の場合は、これから見ていくように、不健康なまでに他人に頼ることを子どもの時から奨励されてきた。内面を見つめる女性なら誰しも気づくように、自分で自分の面倒をみ、自分の足で立ち、自分を主張すると云った考えを受け入れるように教えられた事は一度としてない。(本文p.12)
○あなた自身、あるいはあなたの周辺に思い当る人はいないだろうか?